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- 投稿者: Tong
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李亦畲宗師
(り・いくよ, Pinyin: Lǐ Yìyú)

武式太極拳 第二代の中核的継承者
李亦畬(り・いくよ, Pinyin: Lǐ Yìyú;原名:李経綸(り・けいりん, Pinyin: Lǐ Jīnglún))は清代の武術家・学者であり、河北省永年県広府の出身である。道光十二年(1832)に生まれ、光緒十八年(1892)に没した。科挙において挙人(举人, Pinyin: Jǔrén)に及第し、武式太極拳の基礎期と継承期をつなぐ重要人物となった。
武式太極拳の歴史において、李亦畬は武禹襄の思想を受け継いだのみならず、学派の理論枠組みを体系的に整理・分析し、具体的に記録した最初期の人物でもある。
李亦畬は書香の家に生まれた。父は李世馨(字:贻斋)、母は武氏である。兄弟四人の長兄として育ち、幼少より文(学問)と武(武芸)の双方を学んだ。
このような環境は、身体訓練と原理的省察とを自然に統合する素地となり、のちの太極拳思想の特徴となった。
李亦畬は、武式太極拳の基礎を築いた武禹襄(ぶ・ゆしょう, Pinyin: Wǔ Yǔxiāng)の甥である。武禹襄は晩年、広く門弟を取ることはせず、長年蓄積した理論と実践の知見を、体系的に李亦畬一人に伝えた。この学びの関係は二十年以上に及び、李亦畬は単に型や技術を学ぶにとどまらず、武禹襄の思考の全体構造、勁の理解、身体の組織化、修練法をも把握した。
この安定した継続こそが、武式太極拳の道筋を明確に保持させたのである。
李亦畬は学習と修練の双方において極めて厳密であった。原理や身体構造に関する新たな洞察が得られるたびに書き留め、身近に置いて繰り返し省察した。実用や原理と合致しない点を見いだせば、直ちに改め、再検証した。
この過程により、当初は抽象的であった拳学理論が、検証可能な修練体系へと漸次転化し、武式太極拳は理論と実践の高い一致を得た。
現存資料によれば、李亦畬が整理・解説した主要文献には、五字訣『五字诀』(ごじけつ, Pinyin: Wǔ Zì Jué)、撒放の秘訣『撒放秘诀』(さほうひけつ, Pinyin: Sā Fàng Mì Jué)、太極拳小序『太极拳小序』(たいきょくけんしょうじょ, Pinyin: Tài Jí Quán Xiǎo Xù)、走架と打手の行要『走架打手行要』(そうかだしゅこうよう, Pinyin: Zǒu Jià Dǎ Shǒu Xíng Yào)、および虚実・開合論『虚实开合论』(きょじつかいごうろん, Pinyin: Xū Shí Kāi Hé Lùn)が含まれる。
その思想は「全体構造」を中心に据え、内なる協調で外形の動きを統御し、静で動を導き、理論は推手や実際の用法によって検証されねばならないとする。ゆえに、五字訣『五字诀』や太極拳小序『太极拳小序』は、単なる説明文ではなく、修練を継続的に点検し改善するための道具でもある。
晩年、李亦畬は、王宗岳(おう・そうがく, Pinyin: Wáng Zōngyuè)の太極拳論《太极拳论》と、武禹襄の文献、および自身の長年のノートを校合し、三冊に自筆で写した。一冊は自蔵し、一冊は弟の李启轩(り・きせん, Pinyin: Lǐ Qǐxuān)に渡し、もう一冊は弟子の郝为真(かく・いしん, Pinyin: Hǎo Wéizhēn)に伝えた。後世、これらは総称して「老三本」と呼ばれる。
「老三本」は武式太極拳における最重要の文献的基盤となった。
光緒十八年(1892)秋、李亦畬は母の死により深い悲嘆に沈み、病を得て十一月初八に没した。享年六十一。
武(郝)式太極拳の系譜記録によれば、李亦畬は伝承に慎重で、弟子は四名、郝为真、葛福来、李宝廉、李宝让である。李宝廉と李宝让は実子である。
これらの弟子のうち、理論と実践の双方において完全な伝承を受けたのは郝为真のみであった。後世の武(郝)式太極拳は、主として郝为真の系統を通じて発展した。
歴史的文脈と師承説明
清代における武術伝承の記録は、現代の百科・学術的叙述とは異なる。見かけ上の差異は、事実の衝突というより、説明の基準の相違――とりわけ姓名体系、伝承の階層、科挙用語――に由来することが多い。
師承の叙述においては、伝統武術は「一般の学習」と「完全な伝承」を区別する。本稿は武(郝)式太極拳の立場に立ち、李亦畬が武禹襄の体系を完全に継承した唯一の受伝者であることを明確にする。同時に、外部資料で一般的な簡略表現も残し、叙述枠組みの違いを対照できるようにした。
